基本心

大分類(大概要) もくじ

「森羅万象」

全ての物事の総称。(よって本文は割愛)

「普遍」

 森羅万象の内でも、生後に学習し理解したことを以っては(人為では)変えることが出来ない(変わらない)こと。

「人知」

 森羅万象の内でも、精神機構(知能)も運動機構も備わっていることによって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意な振る舞いなども可能になり、相応の結果が伴う。それらの、知能が備わっていることに因って可能になることの総称。

「人為」

 森羅万象の内でも、人が行った、という意味。

「普遍」

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 森羅万象の内でも、生後に学習し理解した(習得した)ことを以っては(人為では)変えることが出来ない(変わらない)こと。
 そういう性質上、該当する物事は、ほとんどの生物に共通する存在でもある。
 自分が産まれる以前に形成されて存在していることや、自分は未理解でも自律して機能していることや、個人的には理解することすら容易ではないことなども存在するだけに、個人が生後に習得して随意にできるようになること(人知)に対しては絶対的な存在でもある。
 よって、根拠や理由に適しています。
 例えば、次のように、絶妙にできていることや、そうであることを誰もが直に経験し続けることもある。

◆自分が産まれる以前に進化したであろうこと。
 植物も、発芽し、成長し、開花し、結実し、世代交代を重ねて存続される。
 植物と同様に、野生動物も、誕生し成長し成熟して世代交代を重ね存続される。
 それらは、野生の動植物の過酷な生態から推測される彼らの知能では考えも及ばなくても、生理面は自律して機能しているからにほかならない。
 世代交代を重ねて存続されただけではなく、進化も重ねて生理組織が高度になり現在の形態になったと考えられる。その進化は、個人的には成立しないことであり、世代を超えてこそ成立する。つまり、一世代の個人の考えなどには関係なく、進化も自律していることになる。

◆母親の数百の排卵は、それぞれ兄弟姉妹に相当する。その内の自分に相当する卵子がたまたま受精したことによって自分が産まれたと考えられる。
 受精自体や、胎児の性別は、通常は母親にも分からない。
 母胎内で自身が形成されたのだろうが、自身のことなのに記憶に無い。
 自身の形成に関する知識や技術は無いので、既存する生理に基づいて自律して身体は形成されたことになる。

◆誕生後も自身の内臓なのに見たことすら無いが、各臓器や機能で構成されている生理は自律して機能している。
 呼吸器系だとか消化器系だとか循環器系などと言われるが、自身の生理に関する具体的なことはほとんど未理解だ。
 咳き・くしゃみ・嘔吐・下痢・怪我の治癒などの簡単には死なない機構まで備わっていて自律して機能する。

◆知能もすでに備わっている。
 五感(触覚・味覚・嗅覚・聴覚・視覚)・意識・記憶力や、それらを操作する運動機能も備わっている。
 けれども、自分の目がどのようにできているのかを、生後に理解することさえ容易ではない。
 でも、その機能を直に経験できることから、構造や原理などは想像も及ばないほど絶妙にできていることが分かる。
 つまり、こういう機能が欲しいと想像することすら不可能に近い機能が、自分が望む以前からすでに備わっている。

◆精神機構(知能)や運動機構も備わっていることに因って、知らず出来ないと困ることを経験し、相応の学習ができ理解できるようになり、相応のことは随意にできるようになり習熟し熟練し、そのことに関しては困らなくなる。
 そういう自身のことは、生涯、誰もが直に経験し続ける。

◆けれども、肝心な自身の内部に関しては、通常は知りえない。
 また、生きていること自体は自律していて絶妙にできていて、必要なことも誰もが直に経験し続けるのだが、他人に惑わされもし、学習し理解する内容は的外れなことばかりだったりする。
 肝心な自分のことを未理解だと、むしろ与えられた情報で洗脳され翻弄されても、そうであることにすら気づけなかったりする。
 いずれにしても、生後に習得したことを以っては、健康管理もままならなかったり、老化は止められるはずもなく、誰もが死を余儀なくされる。

 等々。

 生後に習得して随意にできるようになったこと(人為)を以っては変えることが出来ない(変わらない)。そういう存在のことを「普遍」と言う。
 個人的には理解することすら容易ではないことだったりし、生後に習得して随意にできるようになること(人知)に対しては絶対的な存在でもある。
 そういう性質上、ほとんどの生物に共通することもあり、根拠に適している。

「人知」

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 森羅万象の内でも、精神機構(知能)も運動機構も備わっていることによって、経験でき学習でき理解できるようになり、相応の随意な振る舞いなども可能になり、相応の結果が伴う。それらの、知能が備わっていることに因って可能になることの総称。
 備わっている精神機構(知能)や運動機構や機能や能力などは普遍だけに、その機能や能力上で実現する経験や学習や理解や結果などの基本面も普遍であり、その因果律も普遍である。
 ただし、経験し学習し理解することだけに、その内容は、個人的にも変化するし、個人毎には千差万別になる。
 例えば、以下のように、熟知できる準備が整ってゆくこともある。ただし、理解することだけに、するとは限らない。

 精神機構(知能)も運動機構も、すでに備わっていて人工的なものではなく普遍的な存在であり、各自に備わっているだけに野生動物でも直に経験し続けることになる。

 五感(触覚・味覚・嗅覚・聴覚・視覚)は、それぞれ異なる刺激を感じるようにできている。

 五感で感じている刺激の内、気になる刺激を気にする(意識上に捉える)と、相応の印象(情報)が記憶に残る。
 記憶に残った情報だけに本人は参照でき、それを基にした識別や思考や予想なども可能になり、相応の振る舞いが可能になり、相応の結果が伴う。
 気にしなかったことは、識別や思考や予想などの対象にもならないし、記憶にも残らない。

 意識上に捉えた物事だけが識別や判断の対象になる性質上、更に明確に識別し判断するためには、より明確に意識する必要があり、音がするほうに耳や目を向けたりする。
 視界の周囲は不鮮明で中央部分(黄斑で捉えた対象)だけが鮮明に見える性質上、注目すべき物をその黄斑部分で捉えるようになる。
 更に、匂いを嗅いだり、味を確かめたり、触感を確かめたりもする。
 そうするほど、確かで詳しい情報が記憶に残り、それを参照できるようになるので、より確かで詳しい識別や思考や判断や予想などが可能になり、より的確な動作や振る舞いが可能になり、それだけ予想に近い結果になる。

 必要なことを知ろうと思うようになる。
 よって、余計なことは気にしない(意識しない)よう工夫するようになり、意図的に必要なことにだけ意識するようになる。
 それだけ、必要なことに集中できるようになる。

 知ろう思うほど、その対象を観察し確かめ試し、そういうことを繰り返す。
 そうしたことは、確かに記憶に残り、関連した情報が(詳しく)記憶に残り、それだけ細部の識別や部分の是非や可否の判断などを的確にできるようになるだけに、巧みになり着実に成果を上げられるようになり、習熟してゆく。

 経験、相応の記憶、相応の情報処理、相応の言動や行動、相応の結果。それらの関係や因果律は普遍的なことで、しかも生存を左右することだけに、自覚もしやすい。

 本人のことが記憶にあり、その人の名前も憶えた場合は、その人の名前を言われると、その人に関する記憶も参照でき、その記憶にある情報を基に、実際に視界内にいるかを探すこともできるようになる。
 名前もしくは本人の情報が記憶にない場合は、名前を言われてもどの人のことかとか分からない。

 言葉を憶えると、教えてもらえたり、助けてもらえたり、協力してもらえ、自分の実力を超えた恩恵にあずかれる。

 そういう性質を経験し、自発的に言葉を憶えようとする。

 言葉と該当する物事が記憶にある場合は、言葉を介して記憶にある該当情報を参照でき、よって相応の情報処理もでき、視界内に本人がいるか否かを探すこともできる。

 環境上で使われている共通の文法を憶え、目の前に無い過去のことでも会話できるようになる。つまり、五感では捉えることができない理由なども思考上では理解できるようになる。

 会話上、未知だったり根拠や理由が曖昧だったり辻褄が合っていなかったりすると納得はできないので会話が滞るが、必要なら確認し、むしろ怪しければ敬遠する。
 つまり、根拠も理由もあり辻褄が合っているか否かは、五感では捉えることができないが、思考上では整理や解析や検証でき理解でき辻褄が合っていると納得もする。

 そういうことは、誰もが熟練する。
 つまり、観察や確認や試験を重ねて確かな詳しい情報が記憶に蓄積されるほど、その記憶にある情報を基に十分な情報処理が可能になるので、そのことに関しては観察や確認や試験を割愛できるようになる。
 よって、きわめて迅速な対応が可能になる。
 そのことを、私は「熟練」と言う。
 もちろん、誰でも、内面的な情報処理は熟練し、よって基本動作も熟練し、日常会話も熟練する。

 こういう生き方をしたいとか、こういう生活をしたいとか、将来的なことをイメージしたり、目指すことや実現したいことを想定し、そういう結果にするための努力や行動や活動をするようになり、相応の結果が伴う。

 その結果を左右する要であり内面的な情報処理や、情報処理が中枢である因果関係や因果律などに関しては、本人は熟知できる条件が整ってゆく。
 そもそも、経験し、模索や思考を重ねて学習したことだから随意にできるようになり、相応の結果を出せるになる。更に、不具合の微調整をして浄化し洗練されるから習熟し上達し巧みにできるようになり、着実に結果を出せるようになる。
 相手が話すことを、自分の記憶にあることだけを基に解析し理解し、応答することを文章化して応える。
 そそういうことだけは、お金が無くても理解可能で、どこにいても理解でき、いつでも理解できると言っても過言ではなく、誰でも熟知できるように条件が整ってゆくと言っても過言ではない。
 しかも、その中枢である情報処理は内面的なことだけに本人の経験や記憶を基に個人的に理解するしかないことなのだが、基礎や基本は普遍で誰にも共通だ。つまり、精神機構の構成要素は大人も子供も同じで、機能的なことも基本的なことも因果律も同じだけに、詳しく理解するほど子育てをする際には有意義なだけではなく重要な知識になる。

 でも、事実確認や整理や検証などをしたことは理解できる性質上、誰もが自分に関する事実確認や整理や検証などをするとは限らず、誰もが自分に関することを理解するとは限らない。
 ちなみに、「知的」云々という場合は、「人知的」とか「人知に適っている」ことを言う。

 むしろ、経験し学習し理解することだけに、その内容は、個人的にも変化するし、基本的なことや共通することを未理解なほど個人毎には千差万別になる。

 そもそも、個人毎に生育環境や経験は異なり、よって好みや価値観は個人毎に異なり、意識を逸らす物事と知ろうとする物事が偏るだけに、随意にできるようになることも個人毎に異なる。
 そうであることも未理解だったり、学習し習熟し熟練したことだからこそ基本的なことは本人は熟知できる条件が整っていることも未理解だったりする。
 判断の基準になる普遍的なことや基本的なことなどを未理解だと、子供の知的成長を阻害していても、そうであることを理解し難い。

 いずれにしても、経験や学習や理解は左右され、それゆえに相違が生じるわけであり、その内容「人知」の相違は「人為」に因る。
 また、「人知」が理由で、相応の「人為」があり、それゆえの結果がある。

「人為」

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 森羅万象の内でも、人が行った、ことを言う。
 結果に問題がある際など、人が行ったことが要因か否かを分別する際に使われる。
 人は、思惑や考えや意図や予想などを基に相応のことを行い、相応の結果があり、社会秩序上は責任が伴う。けれども、その肝心なことは内面的なことであり、本人が言わないと分からないし、本当のことを言うとは限らないし、他者は特定できない。でも、生じている結果が、誰の損害になり誰の利益になることかを分別でき、「普遍」的なことではなく「人為」的なことだと分別できれば、それはどういう考えの基に行われたかも的を絞れる。
「人為」か否かは責任が伴う重要なことだけに、当サイトでも区別する。
 例えば、以下のように、理解できていないがゆえに悪循環に陥ることもある。

 詳しくなることや巧みにできるようになることは、個人的には限られ、個人毎に異なる。
 生後に経験し学習し理解する性質上、自身の内臓は見たことすらない。
 学習し理解できるようになったのに、そのことに関してさえ未理解だったりする。
 生活環境上でも未知なことの方が圧倒的に多い。
 都会に出ると数え切れないほど多くの人を見かけるが、圧倒的というより、ほとんど知らない人ばかりだ。
 個人的には未知なことこそが宇宙規模で存在する。

 観察し確かめ試すなどを繰り返したことほど具体的なことを知り、具体的に知っていることは具体的な否定も肯定もできる。
 詳しく知らないことは、錯覚もする。
 詳しく知らないことだからこそ、想像で補う。事実確認をしない想像は理由や根拠を必要としないだけに、し放題だ。当然に、的外れもあるが、勘違いや思い込むこともある。
 そういう性質上、自分が間違っていることに気づけなかったり、自分が錯覚していることに気づけなかったり、自分が勘違いしていることや思い込んでいるに過ぎないことにも気づけなかったりする。
 そういう経験を基に、そういうことを理解していれば、そういう状態に陥っていないかを確認したり検証したりすることもできるだけに、そういう状態に陥っていても解決できたり、陥らずに済んだりする。
 でも、認めまいとしたり、隠し偽ったりすることもあり、理解するとは限らない。
 つまり、そういう面を未理解だったりし、自分のことをさえ勘違いしたり的外れな思い込みをしていたりする。

 ルールを作って守ることもでき、約束もでき、つまり、仮定や想定もできる。
 仮定や想定だけに、実際には無理だったりする。つまり、無理なことを考えることも可能だ。

 事実確認をしない想像や空想は、根拠も理由も要らないだけに、し放題だが、矛盾することを考えることも可能だ。

 言葉は口先だけで話せるだけに、事実を隠し偽ることも可能だし、事実とは違うことを事実だと思わせる嘘も可能だ。

 苦労するよりは、楽をしたい。損するよりは、得をしたい。

 そういう弱点を悪用し、上辺だけ尤もらしく見せかけもし、自分に都合良く有利になるように本当であるかのように工作もし、優れていることを証明するかのように競いもし争いもする。
 不利なことは隠し、不都合なことは偽り、都合良く言い訳もし、有利にする嘘も慣れるほど巧みになり、騙し欺きもし、私利私欲を貪りもする。
 そうするほど認め難く反省は困難なだけに、むしろ強情を張り、開き直り、逆上さえする。
 それでも、優越感を抱き、慢心して見下し、反省を不可能にしてゆき、悪循環に陥ってゆく。

 数十年の人生のために、太古からの資源を貪ることに加担し、還元されないゴミや廃棄物で環境を汚染して環境破壊を助長する。
 絶滅した生物もあり、人の子供さえ減少している。
 絶妙な秩序を基に自律していることを理解できず、破壊はする。
 人こそが地球上最悪の害獣になりえる。

 自分も、そういうことはできるだけしないために、「人為」に関することは特に区別する。
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